「善の研究」西田幾多郎さんに学ぶ。
こんにちは。
無職おたふくです。
お金に左右されない
自分の煩悩にも左右されない、
自分の本心、ありのままで
できることを見つけたい。
先のブログでこんなことを書かせていただいたのですが、
過去の偉人たちはすでにこういった内容に
色々な考察をされているようで。
忍たま乱太郎をみていたときにながれたCMで
はっとしました。
「善の研究」?!それ、今私が悩んでることやん。
とてもむつかしく、1回みただけでは
私が悩んでいることなのかよくわからないけどww
まとめることで勉強したいと思います。
「西田幾多郎さん」について
まとめてみたいと思います。
第2回~第4回
西田幾多郎(にしだきたろう)さんとは
今から100年前に哲学書「善の研究」や「絶対矛盾的自己同一」を記述した、西田幾多郎。
西田は人生の哀しみや苦悩を出発点として
「真に生きる」ことが可能かどうかを問い続けた。
~善とは一言にていえば人格の実現である~
”善”とは何か
まずタイトルにもある”善”。
これは、善悪の”善”とは少し違っている。
西田は”善”というのは我々の中に種のように存在していて
それが開花していく可能性を、「善の研究」で論じている。
”自己”について;「宗教」
西田は宗教を「大いなるはたらき」だと考える。
その上で大いなるものを求めるのは真の自己に出会いたいから。
「手」に例えると、指いっぽんずつがイスラム教、仏教などひとつひとつで
西田の言う宗教は「手のひら」のようなもの。
宗教を学ぶことで、自分が絶対的な存在ではないと知り、
大いなるものに畏怖をもって向き合う。
その時、自己の根底で可能性が開花し、人間は真の自己になる。
それを西田は”善”といった。
かく考えてみれば意志の発展完成は
直ちに自己の発展完成となるので
善とは自己の発展完成self-realizationであるということができる。
即ち、我々の精神が種々の能力を発展し、
円満なる発達を遂げるのが最上の善である。
善=人格の実現
西田にとって宗教は大いなるものからのよびかけ
宗=大いなるもの
教え=よびかけ
西田の言う「自己」とは?
人と不可分な関係が「自己」。
私を手放していくことが「自己」。
私が私であろうとすることを辞めたところが「自己」。
自分の根底の所に「自己」はある?あるけれど多くの人はそれを知らない。
私たちは自分らしくあろうとすると、かえって自分らしくなくなる。
私たちは不完全なので、自分が正しいと思うことは絶対的なことではない。
意見の違う人からしてみれば、逆の可能性だってある。
哲学の原点に立つときに、自分が不完全であるということを理解して
読み始めることはとても大切なこと。
善とは自己の内面的要求を満足するものをいうので 略
これを満足すること即ち 人格の実現というのが
我々にとりて絶対的善である。
而してこの人格の要求とは
意識の統一力であると共に実在の根底における
無限なる統一力の発現である。
善はかくの如き者であるとすれば
これより善行為とはいかなる行為であるかを
定めることができると思う。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
↓ 是非こちらをクリックおねがいします。
お金とかかかるやつ違うんで。
twitterやってす。
@otahuku_blog
さがしてみてね。